三島古道歩記(みしまこどうありき)

  その九十九回

  耶馬台国三島の神奈備龍王山の八大龍王の中で重要なのが帝釈天と梵天のインドラ因達神です。「梵天勧請」といって釈迦成道時に説法を勧め請うた仏教守護神で、陳氏作同向式鏡の上段の琴を弾く三尊像は釈迦と二天の姿と考えられます。帝釈寺は豊島の甘南井松尾山の麓にあり、猪名津彦神社と共に豊島の中枢を抑えています。聖徳太子の四天王寺建材調達を妨害したのが八面八臂の鬼神相の帝釈天であったようです。新羅(釜山港を含む)船団と豊島の繫がりは古く、新羅渡来の海洋民族伊都県主五十迹手との関係も分かってきました。『日本書紀』に卑弥呼と仮託される神功皇后を博多に迎えた事や「因達祭祀の為丹波桑田郡の出雲に進出」の記録があり、中国の南船で知られる呉出身と考えられるのです。
  そもそも、『魏志倭人伝』で一番重要な記述は「男子は大小皆黥面文身す。・・以て蛟竜の害を避く。今倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚水禽を厭ふ。後やや以て飾りとなす。・・その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。」という邪馬台国の風習が紹介されている所。作者陳寿にとって特筆記事とも言うべき内容の「邪馬台国の男はみな黥面文身して、魚蛤を捕えていたが、後やや装飾的になった。その場所は会稽の東の沖である」です。
  陳寿の比定する会稽の東は間違いですが、そういう間違いを犯すほど作者陳寿が知り得た邪馬台国住人の真っ先に挙げた特色は「黥面文身」の男どもである訳で、これを抜きに邪馬台国論争はできない。神武記の皇后選定の場面「溝杭ホトタタラ姫と黥面文身の大久米命」との歌が鍵なのです。

  その壱百回
黥面文身の大久米命が伊久米垂仁天皇と同一人物であり、邪馬台国の第一副官伊支馬でもあるという私の研究二十年の成果で証明するのが一番分かりやすいのですが、論拠を揚げて解説するには多くの字数が必要ですので、それは次回以降に回させてもらうことにして、現存日本最古の史書『記・紀』に「安曇目」や「サバ海人」として表現される「黥面文身の海洋民族」の説明を先にすることにします。ただ、今回が百回を意識したことと、茨木龍王山の麓の千提寺に緊急に守らなくてはならない丸墓・タタラ遺跡が出土し、先に龍王に触れた為に飛ばした説明があります。紫金山古墳の方格四神鏡の製作者がなぜ中国の呉出身でしかも倭国への渡来者と言えるのかという根拠です。
  四神鏡にも東(或いは左)の青竜と西(或いは右)の白虎が出ています。出現期の前漢末から新時代の四神は線刻と文字が主流で後漢になって浮彫の像になるようです。恐らく章和元年(87)の獅子献上迄に二種の龍像が描かれ、一種は辟邪・天禄といって多くは二角龍と一角龍の対で、男根によって雄雌の区別がつきます。もう一種の伝統的な盤龍(龍虎)鏡の龍、即ち銘文に「龍虎虫」とある龍は角の描き方に違いがあるのです。
  例えば、隆帝章和時の淮南龍作盤龍鏡では実物の獅子の雌雄から変形(転生)した辟邪・天禄は別の生物(越獣)と考えられ、龍氏の銘文には「辟邪・天禄・獅子」と記されている。この三種の仏教守護獣で盤龍鏡を作っているのが広峯出土の「景初四年・陳是作鏡」の陳氏で、自分の姓を逆字で書いてしまった淮南龍氏の流れを汲む呉の鏡造り職人です。紫金山古墳出土鏡は例外なくこの呉の陳氏の影響が見られるのです。

 〈 三島古道歩記 その百回別記 〉
  龍氏や杜氏の流れを汲む紹興の鏡造り職人陳氏の最大の特色は仏教意匠を取り入れた新しさです。百聞は一見に如かず。百回特別企画として三面の鏡を見てもらうことにします。

@
A
B

先ず、@福知山広峯古墳出土の「景初四年・陳是作」銘鏡
右側に鬣の獅子2匹、   逆字の「陳」、   左側に二角の辟邪と一角の天鹿(禄)の像

次にA紫金山古墳の被葬者の頭上に置かれていた王莽(おうもう)の新(9〜23年)時代からの伝世舶載品と地元茨木・大阪の大学者が太鼓判を押す方格規矩(おすほうかくきく)四神鏡。

その次はB内区の方格の作りが瓜二つの葛城新山古墳出土の擬銘帯で仿製の方格規矩四神鏡。

 AとBの二面、具体的にどこが似ているかというと、中心の鈕座の模様。それと方格内の十二支の文字。中でも「巳」の文字は篆書(てんしょ)風体と中国の学者が指摘する、丸い頭と上下にうねらせた胴体の蛇そのままの絵文字で、明らかに紫金山の方格規矩鏡を模倣していると考えられます。
  そのうえ、紫金山方格規矩鏡は「新有善同出丹陽(しんゆうぜんどうしゅつたんよう)」で始まりながら「尚方御竟大毋傷(しょうほうごきょうだいむしょう)」と再びスタート銘文の続く不自然な所や、L字が二つも消える鋳上がりの悪い所。また「居」が逆字で、更に「有・右」の字が鍵字になっているなど、後漢のしかも、倭国渡来が確実視される「陳氏作鏡」に良く見られる特徴を持つ点で、伝世舶載に疑問符が付くのです。精巧な三三獣鏡を副葬する新山古墳には紫金山仿製同笵鏡も出土していて両者に深い繫がりが見られます。4世紀築造とされる新山古墳と紫金山古墳出土の銅鏡の鋳造時期は近いと考えられ、紫金山古墳の中で、方格規矩鏡だけが200年以上も伝世されたという根拠は希薄で、従来の説は訂正の必要性があります。古墳内の埋葬銅鏡は例外があるにしても、被葬者の生存時期から離れていない時期に作られていると見てよいと考えます。従って、銅鏡による時代特定はもっと重視されるべきと考えます。

  その百壱回
上海博物館に陳の氏名がずらっと並んでいる石碑がある。日本と違って写真撮影は自由であったのでそれを拡大して見ている。
  日本で発掘された銅鏡の銘文帯以外に刻まれた陳氏は現時点で3面。@大阪御旅山古墳の逆字の陳氏とA兵庫阿保親王塚の陳孝然とB佐賀杢路寺古墳の双魚傍の陳。孰れも4世紀以降の古墳出土とされる。中国後漢・三国時代の銅鏡銘資料の陳氏は陳世他数名挙げられるが画像の共通点は少ない。その中で注目するのが「氏作竟大無傷 有善銅出丹陽 和以銀錫清且明 左龍右虎主四彭 朱鳥玄武順陰陽」の銘をもつ後漢鏡。
  呉人特有の「亖旁(しぼう)」を「四彭(しぼう)」と書くこの後漢末獣帯鏡の作者こそ、日本渡来の陳と紫金山「有善銅出丹陽」銘鏡を結ぶ人物です。同一人物の証明は難しいがBの佐賀伊万里の杢路寺(もくろじ)鏡の陳を筆頭に3人とも卑弥呼と同時代の可能性は濃厚です。
  景初三年(239)魏の使いが倭国に船を使って上陸し陸行し始めた地が末蘆(まつろ)国(松浦)で、伊都国(糸島)まで東南五百里、更に奴国(博多)まで東行百里となっています。この三国の比定は出揃ってきており、私も昨秋の二千キロに及ぶ旅で距離を測るなどして末蘆国を佐賀の伊万里に自信をもって比定しました。なぜなら伊万里には全長百米に迫る杢路寺前方後円墳があり、紫金山古墳出土の倭製三角縁〈陳関与作〉鏡と酷似の鏡が副葬されていたからです。一カ所違っていました。獣帯の仏教意匠の双魚の傍に@の大阪御旅山鏡と同じように「陳」の字が刻まれていました。釈迦牟尼仏の自由無碍(むげ)の象徴とされる双魚は、陳氏の代名詞と言ってもよいと感じました。Aの兵庫親王塚鏡も(ちゅう)の周りに四匹即ち二対の双魚が刻まれています。三鏡とも渡日直後、特にBの鏡は景初三年作が妥当と考えます。

  その百二回
中国の魏王下賜の「卑弥呼百枚鏡」の最有力候補は「景初や正始の年号と陳氏」銘鏡で且つ「双獅子や双魚などの仏教意匠が施された仏像鏡」という私の説は合点戴けたでしょうが、紫金山出土鏡の全てが〈 陳氏関与鏡 〉とは納得できない、つまり、三島なかでもその中心の茨木が邪馬台国の筈がないと考える方のために決定的証拠をお見せします。
  正始元年陳作鏡出土の兵庫県豊岡森尾古墳には「新作大竟」で始まる48字銘鏡がある。同笵(どうはん)鏡は広陵新山古墳に近い河合佐味田(かわいさみた)古墳出土鏡で、内区主文の四神四獣が酷似していて明らかに陳氏作とされる「新作明竟」で始まる40字銘鏡も奈良黒塚、滋賀綾部山古墳から出土している。これら4鏡は「銅出徐州師出洛陽」を含め39字が同じで、森尾・佐味田鏡は「左龍虎師子名」の8字が増え、逆字の明の字が大となっている所が違うだけで、銘文からもこの作銘の4鏡が氏作鏡と分かる。
  それに、先に書いたように陳氏はなぜか一文字は逆字にする癖があり、且つ「右」と「有」の字等を鍵字にする特徴があるのです。この「きつつき21」連載の百回別記に〈「居」が逆字で「有・右」の鍵字など舶載伝世に疑問符の付く紫金山鏡〉とコメントしたのは、日本全国の古墳から出土している「陳氏銘鏡」を調べ直して分かったからです。今年の一月の第四土曜日に小寺池図書館でいつも通り「耶馬台国を三島に探る会」の例会を開いていた時に、司書の方が見せて下さった『3次元デジタルアーカイブ古鏡総覧』にほぼ実物大の銅鏡が載せられていて、その4鏡が詰めとなりました。紫金山「新有善同」鏡も森尾の「新作大竟」などと同様、日本渡来の「陳」作鏡であると。
その438頁には更に高槻市阿武山の獣文帯三神三獣鏡が掲載され、紫金山仿製の同笵と見まがう鏡に卍が点いていました。同笵鏡に佐賀谷口古墳西石室出土の2面があり、陳氏及びその弟子筋の足跡の確認も一つのキーワード「渡日陳作鏡」でできるのです。

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